ヨーロッパの翻訳者 ~ アゼルバイジャンのコスモポリタン

職業柄、色々な国の翻訳者と仕事をするが、中でもこういう仕事についていなければ絶対に知り合うことも親しくなることも無いだろう、という人と出会うことがある。
例えば、アゼルバイジャンの人。
「私はアゼルバイジャン人よ」とさらっと言われても、「へー、そうなんですか」と儀礼的にとりあえずの返答をした後、次の言葉が浮かばない。
もちろん、国名は知っている。でも地図でいうとどこらへんだっけ?全く根拠のない個人的イメージでは、中近東とか、もうちょっと東の中央アジアのあたりのような気がする。恥ずかしながら、この国の人がどのような身体的特徴があって、どのような生活習慣を持ち、どのような国政のもとで生きているのか皆目検討がつかなかった。
最近、現地の翻訳業界団体の会合で知り合ったアゼルバイジャン人通訳・翻訳者、グリア・ラマザノバ(Gulia Ramazanova)さん。
このエキゾチックな顔立ちの若い女性は、私のような外国人の反応に慣れているのだろう。
当惑気味の私の表情を察したとたん、手帳についている携帯世界地図を出して、ロシア、グルジア、アルメニアに隣接する小さな国をシャープペンの先で指し示してくれた。
「ここ。凄く小さいけれど、海(カスピ海)もあるのよ。」
具体的に地図で見せられると、ああ、ここかという実感がわいてくる。
手帳についている小型地図では首都名もはみ出してしまうくらい小さな国土面積。大きさの面では対照的なロシアとイランに南北で挟まれ、飛び地としてアルメニアに囲まれているという地理的環境。歴史的に民族間の紛争や独立運動が絶えなかったのは至極当然のことかもしれない。
しかし、複雑な政治状況を伴わざるをえない地理条件も、見方を変えればそれが言語的多様性という文化的な豊かさにつながることもある。
彼女も島国出身の私から見れば、その恩恵を受けて逞しく育った優秀な若手翻訳者の一人である。
40代以上の参加者が多い会合で、一人だけ若々しい学生のような風貌をしたお嬢さんがいた。たまたま席が近かったので、お互いどちらからともなく、自然に話しをするようになったが、未だあどけなさが残る外見とは裏腹に、その知的で淡々とした話し方に引きつけられた。年齢をきけば未だ28歳だという。しかし、質問の仕方、或いは質問への答え方で、彼女の知的水準と実年齢以上の精神的成熟度を感じた。
2年前にパリで翻訳事務所を設立し、友人と共同経営しているというグリア。
彼女とならきっと安心して仕事が出来るだろう、と直感的に思うと同時に、私にとって全く未知の国の人、アゼルバイジャン人である彼女がいかにしてパリでプロ翻訳者・通訳者として身を立てるに至ったのか知りたくなった。
* * *
グリアはアゼルバイジャンの首都バクーで、小児科医の母親と金属工学専攻の大学教授である父親との三女として生まれた。
当時、映画や日本製のテレビゲーム等の娯楽物は殆どロシア語なので、彼女も他の子の例に漏れず、物心つく頃にはロシア語とアゼルバイジャン語のバイリンガルになっていた。
4歳の頃、父親の仕事の関係でチュニジアに2年間滞在する。その後一端帰国するも、6年後に再び家族でこの国の地を踏むことになる。今回は10年をめどにした長期滞在である。
チュニジアは1956年に独立する前はフランスの保護領となっていたため、公用語のアラビア語の他、フランス語も広く普及している。が、両親の方針で、グリアは現地のフランス語校に入学し、リセ(高校)までフランス語環境で過ごした。
スポンジのように吸収の早い幼少期をフランス語で生活したのである。フランス語を母国語のように話すようになるには時間はかからなかった。
同時にアラビア語についても、日常生活に困らない程度に身につけた。
バカロレアに合格した頃、父親の仕事の任期が終了し、家族でアゼルバイジャンに帰国することになった。しかしまだ学生だった末っ子のグリアについては、そのままフランス語で学業を続け学位をとった方がいいということで、彼女だけチュニジアに残り現地のフランス系大学に入学する。そこでフランス文学を専攻。修士課程まで在籍し、最後には成績最優秀者として表象された。
さて、既に母国語とロシア語の他フランス語も完璧にマスターし、大学で交付された成績最優秀者の表彰状と学位を持って悠々と両親の住む母国に戻ってきたグリアだが、その時既に彼女の心の中で次の目標は固く決まっていた。1年後には絶対に本場フランスの大学に留学し、博士課程に進むと。
いくらフランス系のチュニジアの大学でフランス文学を修めようと、チュニジアはチュニジアであってフランスではない。少なくともフランス人はそう見る。将来はフランスで身を立てることを決意していたグリアは、フランスで知識層と認められ、知識層としての仕事に就く為には、この国でそれなりの学位をとることが最低限の条件であることを知っていた。
青春時代をフランス語とフランス文学に注ぎ、フランス語の奥深さや美しさに魅了されたグリアは、自分の将来はこの国で開花させようと早くから決意していた。そしてパリ大学で博士過程を修了すること、これは彼女の学業の最後の仕上げとして不可欠な条件であるとともに、今後のフランスでの職業人生を決する重要な切り札でもあったのだ。
ところで、チュニジアから直接パリ大学に進まず、一端バクーに戻って来たのは、なんといっても生活費の高いパリ生活の資金繰りをするためだった。
1年間留学の準備をしながら、少しでも留学生活の足しになるように働き口を探す予定だった。既に完璧なフランス語と、チュニジアの大学での成績最優秀者としての表彰状が認められ、フランス大使館が主催するフランス語講座の講師及び会議通訳者のポストに採用された。仕事内容が彼女にぴったりなのは言うまでもないが、なんといってもそこで年に一度、能力のある現地職員に与えられるフランス留学奨学金制度が魅力的だった。
当然グリアは、奨学金を目指して全エネルギーを仕事に注ぎ込んだ。しかしそのことがかえって裏目に出てしまう。グリアの通訳としての優秀さを大いに買っていた担当領事が自分の任期中は彼女を手放したくないが為に、奨学金の申請を次年度に後らせてしまったのである。
幸い、その領事の転勤が早めに訪れ、翌年には新任の領事の申請により直ぐに念願の奨学金を受け取ることが出来た。
予定より1年遅れたものの、晴れて奨学金を手にしたグリアは、大手を振ってパリへ発つ。
その時24歳。が、生まれてから24年間、既に母国語のアゼリー語の他に、ロシア語、フランス語、アラビア語、英語という複数言語をその時その時の巡り合わせで自然に身につけてきた。そんな彼女が今、自分の将来を考える時期になって意識し始めたテーマは「言語」と「コミュニケーション」だった。
そこでパリ大学博士課程では研究分野として言語論理学を選択。2年後には無事に念願の博士課程修了証書を取得する。
このパリでの学生期間は、チュニジア時代同様、公私ともに実り多いものだったようだ。
まず、大学のカリキュラムの一貫で、夏の3ヶ月間、どこか海外に行きその国の言葉を習得してくるという語学研修システムがあるが、彼女は母国の近隣、トルコのイスタンブールを研修先に選び、そこでトルコ語を集中的に勉強している。トルコ語は母国でロシア語ほど普及していないが、幼い頃から決して遠い言語ではなかった。現在大人になって、今まで「一方言として捉えていたトルコ語」を、改めて一つの言語として理論面から裏付け、習得しておきたかったのだ。そして、更にいえば、母国語のアゼリー語に近似するトルコ語を学ぶことは、母国語を別の視点で考えること、つまり母国語の理解を深めることになる。いずれにせよ、その構造を把握している外国語が一つでも増えるということが、彼女の言語研究を豊かにすることに違いはない。
そして、プライベートでは、この時期にパリで将来の夫となるべき男性と出会っている。夕食に招待してくれたパリの知人宅で、チュニジア時代高校のクラスメートだったセリムと偶然の再会をするのである。その時彼もグリア同様、南フランスの大学で博士課程に在籍し専攻の生物学の論文を書いていたところだった。
同じ博士課程在籍中ということと、二人ともたまたまそれぞれの恋人と別れたばかりという境遇が重なって、直ぐに意気投合。まもなく将来を誓う婚約者となった。
* * *
学生生活を終了し、「働く」ことを考える段階になっても、今まで自分の人生に付いて離れることの無かった「言語」「コミュニケーション」というテーマを職業として据えることに迷いはなかった。
トルコ語も習得した彼女は、卒業後は、多言語翻訳者・通訳者として多国籍の移民・難民問題を管轄する政府機関に採用される。そこで、膨大な数の行政資料、裁判資料等を翻訳するほか、様々な移民・難民関連の法廷通訳をこなした。ちなみに彼女がそこで対応した言語は、アゼリー語、ロシア語、フランス語、トルコ語、英語の5ヶ国語である。
現在は、更に自分の活動分野を発展させるべく、自らの事務所を構え、当局から来る移民・難民関連の案件に加えて、母国アゼルバイジャンに関する国際石油ビジネスのドキュメント翻訳や同行通訳を始めた。そう、アゼルバイジャンは豊富な油田を持つ、天然資源豊かな国なのである。欧米企業出資の石油事業も多く、彼女がコミュニケーションの橋渡しとして活躍できる場として期待できそうだ。
事務所の経営も軌道にのり、数年間交際していたセリムと最近めでたく結婚式を挙げたグリアの生活は、現在公私ともに順調である。
幼い時から自分の好きなこと、やりたい事を常に明確に意識し、それに向かって真っ直ぐに歩んできた28歳のコスモポリタンは、今、その恵まれた語学力をフル活用し、多国籍間コミュニケーションの架け橋としての役割に全力を注ぎ込んでいる。

グリアの母国、アゼルバイジャンの首都バクーで挙げた結婚式での一枚。
2009年08月30日


